
日本・時間・歴史
阿部謹也の世間論をもって日本でもやっと個人の内面ということが考えられるようになってきた。
特に戦後、なぜ多くの人がコロっと転向したのかという謎を考える上でも興味深い議論である。
阿部氏がその思想、主張と行動を一貫して行った人だということはよく知られている。
無論それが氏の寿命を縮めてしまったのかもしれない・・。
それに対し、主張と行動の食い違うインテリたちがこの国にはなんと多いことか。
特に日本人の歴史意識が円環的だという指摘は示唆に富む。
現代の日本の西洋学者達でも素朴すぎるまでに歴史循環論を信じている現状を見れば尚更だ。
本書にはマルクス主義史学者EHカーに対する批判も含む。
そのためカーが復興しつつあるリベラルな学者世間には絶対に許せないのかもしれないが。
いくつかの点を除いて難しい知識がなくても読めるため、学生や社会人にお勧めできます。

阿部歴史学入門書
欧米人の歴史意識を「直線的」、
日本人の歴史意識を「円環的」
と捉えたところは納得したところでもあり、
またしかし、他の学者たちも論究しているところでもあります。
新書一冊にしては内容が過密に思えましたし、
「世間」を論じるには論考は不十分でした。
しかし、だからこそ、自分自身でいろいろと考えるところもあり、
(そして阿部氏の他の著作も読んでみたくなった、ということもあり)
阿部歴史学の入門としては良書かと思われます。
日本におけるドイツ中世史さらには社会史を切り開いていった
阿部先生の「遺言」として本書を受け取りたく思います。

日本人の”歴史観”について、反省と同時に希望も与えてくれる本
著者の視点は、日本人の歴史認識について反省と同時に希望も与えてくれるもので、とても勉強になりました。反省的視点としては、例えば、日本は「個人」ではなく「世間」の世界なので、一般人は神話的な歴史観以外の歴史観は理解できない。学問としての歴史は明治以後に自然科学と同様な理解の下に西欧から輸入されたが、西欧的個人の概念を理解していなかったので、その価値を生かしきれず今日に至っている、等々。一方また、「世間」を対象化することで人間を他の自然と対立させた、収奪的でもある西欧的な個人ではなく、日本的「個人」を、ひいては日本的「歴史意識」(つまり生き方と言う意味が含まれているのだろうと思います)が作られることが可能であるともいっておられるのではないかとも思いました。

著者は「世間」の外にいるのか?
日本という国では、昔から「世間」が人々の生活を枠付けるモラルの基盤であった。「歴史」はというと、自分たちの外部にあり、たまに顔を出してはやがて忘れ去られるものであった、というのがこの本の著者の主張である。さらに、私たちは今こそ狭い「世間」の枠組を対象化し、「歴史」に向き合うべきだ、という提言がなされている。なるほど、と思った。が、説得力がない。著者の『「世間」とは何か』は、私たちがふだん漠然と抱いている思いや感覚の意味や意義を、古典文学を多用しつつ解読した名著だった。今回は失敗である。「日本人」の「歴史意識」などという巨大(誇大)なテーマを、「世間」というひとつのキー・ワードだけで考証しつくせるわけがないではないか。学者としてのモラルが問われるところだ。本書の後半なんか、学者世間のグチばかりが頻出して、この本で勉強しようと思って読みはじめた私は、興ざめしてしまった。この本は、学者として広い「世間」に認められた人間にしか書けない本だ。議論が多少はずさんでも、「作品」として通用してしまうのだ。これを「権威」という。そしてこのレヴューのような見解は支持をえられない。だって、「世間」の価値にのっとっていないから。

世間という日本教
僕はこの本を読んで卒論の題目を決めました。世間=日本人の宗教ということが解かりました。日本人は世界に類をみない無宗教だと表面的には言われていますが、実は日本人にもとても曖昧で柔らかい行動様式がありました。それが世間というものでしょう。昔、山本七平というひとが日本の宗教は日本教であるといっていましたが、その根本的なところがこの世間という概念ではないでしょうか。日本人を知るためにはまず、この日本人の宗教を知る必要がある。このことを知らずに現在の日本人を知ることはできません。著者も言っているように、世間に適応している人はなかなか知るのは難しいと思いますが、不適応の人、適応したくない人が読むといいと思います。