
「力の論理」
作者の満州へ渡り、敗戦から引き上げまでの前半生を踏まえながら、「昭和」の前半の歴史に切り込んだ作品です。
満州国の問題、日中戦争に走る関東軍の暴走、226事件、敗戦から引き上げ等々についての歴史の描写は、少女時代の彼女の記憶と共に、なかなかの迫力を持って迫ってきます。
シビリアン・コントロールという言葉は使われていませんが、「市民社会は軍事的「作為」に対してつねに無力である」と言う一言にすべてが集約されているように思います。明らかな違法行為も、それを是としてしまう「力の論理」が、この戦争を引き起こし、そこでは、多くの犠牲を強いられることになります。このことは、歴史の教訓として胸に刻んでおくべきことでしょう。
ここに引用されているヴォルテールの《貴方のいうことにはひと言も賛成できるところはないが、貴方にそれをいう権利があることは、死を賭しても私は守るつもりです》という表現の自由については、言葉だけでなく、絶対に守らなければいけないものでしょう。
そうした「歴史」の描写以上に作者の心情が良く表れているのが、「ひとりごと」「いのちの重さ」の章で、この二章だけをエッセーとして読んでもなかなかいいと思います。

戦後満州の証人
澤地久枝氏は昭和五年生まれで、今年七十六歳になるはずだ。終戦を満州で迎えている。当時十四歳だった。この多感な時期に戦争の動乱に巻き込まれて、貧困・飢餓・恐怖・欺瞞・偽善を目の前にし、同時に自分の一家にのしかかるさまは、ここでは言い尽くせない。昭和(いや戦後)という時代が如何に過酷なことを多くの国民に強いたかが分かる。
今は裕福な時代になったからといって、考えを甘くしているととんでもない世の中の動きに、全く個人は対応できなくなることを知るべきかと思う。世の中の動きを察知して、適切な対応を政治家こそするべきだというが、その政治家や行政官が、過去においては「全く無責任」だった。自分の身は自分で・・澤地さんのお考えである。
今は時代が違うか。今も何も違わないどころが、人間の勘や想像力が鈍り、政治家、国民の一切が、能力を退化させてはいないだろうか。こんなことを考えさせる一冊である。