
「誰が為に鐘が鳴る」を読んで
「誰が為に鐘が鳴る」を読んでから、老人と海を読みました。
海と老人の格闘という視点で、深みのある作品だと思われます。
原書も一度は読んでみたいと思いました。

人生の黄昏
著者の経歴から推測すると、主人公の老人は著者自身を写している面があるだろうと思う。53歳で体力の衰え感じ始めたのに加え、事故で重症を負い身体的な頑健さを失ったこと、創作についての自尊心・自信と作品の不評との葛藤、老いることへの心細さが移入されているように思う。
「『誰か話し相手がいるというのはどんなに楽しいことかが、はじめてわかった。自分自身や海に向かっておしゃべりするよりはずっといい。お前がいなくてさびしかったよ。』と老人は言った。」、「僕、お爺さんに教えてもらうことがたくさんあるんだから。」という会話が、少子高齢化日本や50代に近づいた自分自身の問題を思い起こさせ、共感を覚えた。
釣りのシーンの描写は、繰り返しが多く、しつこい感じがした。

単純で難しい話
この作品の筋は実に単純だ。老漁師が一人でカジキを釣り上げるが帰港の間に魚をサメに食べられてしまう。それだけだ。
「単純」な話と「簡単」な話は似ていて非なるものだ。この作品がその良い例だと思う。
この話は漁師の「敗北」を描いているのか、「勝利」を描いているのか。それすらはっきりと断言できない。それほど難しい話なのである。
カジキを持って帰れなかったという筋だけを見ると「敗北」の話だ。但し老人はカジキを釣り上げた点を見るとこれは紛れも無く「勝利」と言える。特に老人は既に漁師としての盛りを過ぎたと言われていた環境を考えると「大勝利」であると言ってよいと思う。
但し、と思う。
但しこの話はやはり「敗北」の話なのではないか。そう読む方が味わいにぐっとコクが出てくるような気がしてならない。
「敗北」にはある種の甘美さがつきまとう。負けっぷりの良さという言葉もあるが僕らはどこか敗北の中に美を見る部分があると思う。「老人と海」というシンプルな話が美しく煌くとしたらその漁師の敗北の美学ではないだろうか。
繰り返すがこの話は単純で難しい話なのだ。色々な読み方が出来る。そんな本は余り多くない。

漁を通して人間存在の罪と虚無を描いた秀作
ヘミングウェイの作品を読むのは、若き日に書かれた短編集以来二作目だが、本作は幾分ハリウッド的な、大衆受けを打算しての作品ではないかと思いました。
プロットが解り易く、枚数も短いので、いささかアメリカ人受けしそうな作品です。
とはいいつつ、≪氷山の理論≫を用いたヘミングウェイらしさも、もちろん失われてはいません。
「しかし、おれは考えずに入れない。だっておれに残されたことといえば、それだけだからな。それと野球だ。」
「おれにはよくわからない、罪を信じているかどうかもはっきりしないんだ。たぶん罪なんだろう、魚を殺すってことは。たとえ自分が食うためであり、多くの人に食わせるためにやったとしても、罪は罪なんだろうな。
でも、そうなれば、なんだって罪だ。罪なんてこと、考えちゃいけない。」
と、船に乗りながら自問自答を繰り返す繊細な老人サンチャゴは、まさにヘミングウェイの投影であるに違いありません。
巨大なカジキマグロを仕留めながらも、サメに肉をついばまれて、持ち帰った時には骨になってしまうという結末も、いわれもない虚無感を表現していて、逆説的に人間存在の罪に対するアイロニーを残していると思いました。
ただ、若き日のヘミングウェイの作品よりも、エネルギーが衰えているように感じてしまったことも事実です。

執念
特に好きな作品で、日本語翻訳版(本書)と英語版原書とを何度も読み比べてみた。
結果として、日本語翻訳版の方が、心の中に、その神髄を真摯に訴えてくる様にも感じる。
英語版原書の英語は、表現にかなり口語的な部分があるが、翻訳はその部分も含めて、巧みになされている。
老人とかじきまぐろとの死闘が繰り広げられるが、その臨場感に汗まで噴き出す思いだ。
そして、意外かつ哀愁に満ちてはいるものの、こんな結末であっても、爽やかだ。
私はこの作品を、中学生の時に一度読んだ。
しかしその時は、老人をこの死闘に駆り立てるものが何か?という事を読み取れなかった。
その後、色々な事に挑戦してきた今になって、じっくりと読んでみると、無性にこの作品が愛おしい。
執念とは、こういうものなのだ。
重要なのは、結果ではなく課程と強い想いだ。
老人の闘志は、次第に友情に変化したのではなく、当初から友情だったのかも知れない。
そうでなければ、老人は、この様な強い執念を維持出来ただろうか?
執念を「情念」と言い換える事も出来る。
人生の節目節目で読み返したい作品だ。